信じることの本質、自己肯定と他者否定
2012.11.5
⇒前回からの続きです。
「 S島は、我がA国の領土です。 」
「 それは違います。B国の領土に間違いありません! 」
「 いや、この歴史的証拠があるからA国の領土なんだ! 」
「 それは捏造で、もっと古い資料があるからB国の領土です。 」
「 捏造という証拠はない。そもそも国際法上・・・ 」
「 だいたいあなたの国の教育が・・・ 」
というような領土問題についての論争が日本と隣国で起こっています。
そもそも領土とは、
あるいは国家というものも、
初めからあったわけではなく、さまざまな変遷を経て現在に至っているので、
「 どの時点で、何を基準に判断するのか? 」
という判断基準について徹底的に合意をする話し合いを行わないと、
当事者同士が何を言っても、感情的になってしまったり
堂々巡りを繰り返してしまうのは明らかです。
ここでは、
実際の領土問題について考えるつもりはありません。
このような
利害関係のある他者に対する、
共通理解、妥協点を探って、
合意をしていく行為は、
ある意味、
数学の最大公約数を求めることに似ています。
例えば、 48 60 84 と3つの数字があった場合、
共通の数字で割っていきます。
2 )_48 60 84
2 )_24 30 42
3 )_12 15 21
4 5 7
最初はとても違う数字でも、
2×2×3 は共通(最大公約数)で、最後に残った4、5、7というわずか!?な違い。
s島は A国 B国 C国 の領土だ!についても
近代国家が成立した西暦1×××年以降で考えよう )_A国 B国 C国
その後、最初に領有していた国の領土としよう )_A国’ B国’ C国’
A国” B国” C国”
など共通因子を見つけ出していく作業を経て、
合意形成を目指していくものです。
さて、
長くて分かりにくい前置きで恐縮ですが、
このように、
意見が違って、利害関係がある場合、
お互いの 共通点や妥協点 を見つけあっていくことが
合意する上で最も大切なことなのです。
しかし、
このような論争をしているさなか、
「 私は、S島を私の国の領土だと『 信じている 』! 」
などと主張する場面がしばしば!?見うけられます。
身近な話など、
あらゆる論争!?で、「 私はこれを信じている。・・・ 」
という場面もありますが、
私は48を信じている。 僕は60を信じてる。 俺は84を信じている。
それでは、もうそこから
共通項を探り当てる余地がなくなってしまいます。
私が48を信じているから、私の意志を尊重してほしい。
私が48を信じているから、あなたは従うべきだ。
実際に言葉には出さなくても、この主張をしていることとほぼ同じです。
実は、
「 信じること 」自体が持つその本質とは、
自己肯定宣言であると同時に、他者否定なのです。
神でも仏でも、哲学でもポリシーでも、
信じるものが違えば、
分かり合うことはありえません。
住み分けは可能ですが・・・。
宗教の違いによる争いは、
歴史の上で幾度となく繰り返されていますが、
それは、
そもそも他者理解不能な
「 信じること 」を拠りどころにしているからなのです。
<続く>
※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。
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