副住職の法話推敲記録ノート

太陽は、地球の周りを回っているのか?

2012.11.8
⇒前回からの続きです。

説明するまでもないのでしょうが、
ガリレオ・ガリレイ

地球が太陽の周りを回っていると主張した事が罪にとわれ、
裁判で有罪となりました。
その際の、
それでも地球は回っている 」といわれる言葉が有名です。

そして
ガリレオ・ガリレイの死後、350年を経た1992年
ようやく教皇が裁判の誤りを認め謝罪をしました。

天動説地動説

科学が発達していない当時のことなら仕方ありませんが、
現実は明らかに地動説が正しいのに、

どうしてこれほどまでの長い間
その正しさを認め、誤りを謝罪することができなかったのでしょうか?

それは、まさに、

太陽が地球の周りを回っていると
信じていた 」ことに深く関連しています。

信じていること 」を否定することは、
信仰への冒涜であり、神への冒涜となってしまいます。

例え、「 現実 」を突きつけても、
それを素直に認めることがなかなかできないのが、信仰の問題です。

なぜなら、
信じること 」とは、
その内容の真偽について検証しない立場であり、

そもそも
その信じることを思考の出発点とするものだからです。

「 太陽は、地球の周りを回っていると信じている 」

この考え方自体を拠りどころとして、
それを現実で検証するつもりも検証する必要もないという立場。

現実よりも、
信じることを優先する立場。

これはつまり、
信じることとはある意味、
現実無視宣言 」なのです。

の存在を信じる 」
○○仏の存在を信じる 」

日常的な会話!?、議論の場でも、

クジラは食べてはいけないものだと信じているから・・・ 」
は食べてはいけないものだと信じているから・・・ 」

ナチスは、
ゲルマン民族の優位性を信じて 」いました。

私たちは、
信じる 」という言葉を使う瞬間に、

本当にそれが現実なのか?
何故それが正しいのか?

など、
現実との検証を止めてしまうものなのです。

現実に根拠をもたない、
現実に拠りどころをもたない、

「 信じる 」という行為と内容が、

もし違ってしまって、
しかも利害関係で対立してしまったら、
あるいは、
信じていることの内容がひどいものであっても、

検証のしようがないのが

信じる 」という行為の本質です。

宗教の危険性は、

まさに、
この検証不能な「 信じる 」という行為を拠りどころとするところにあります。
<続く>

※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。

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