副住職の法話推敲記録ノート

「思いやりの心」の限界

2012.12.9

思いやりの心 」は大切です。

様々な事件が起こるたびに、
あるいは
身近なことでも、

他人の苦しみや悲しみを理解すること、
共感することなど、

あらゆるところで
思いやりの心が大切だといわれています。

場合によっては、
「 思いやりの心を持てないのは、人間じゃない鬼や畜生だ

などと言われることがあります。

しかし、
これほど「思いやりの心」が大切だと強調されても、
つい自分優先で考えてしまったり、

なかなか
簡単に出来ないからこそ、

余計に
「 思いやりの心 」の重要性が叫ばれているのかとも思います。

教育的課題でも、
どうしたら「 思いやりの心 」を育成することができるのか?
政治的課題でも
どうしたら「 思いやりの心 」を育む社会を作ることができるのか?

ちょうど
選挙を行っていますから、
候補者の中には「 思いやりの心 」を訴えている方もいると思います。

どうしたら、
他人の苦しみや悲しみに共感する心、
理解する気持ちが生まれるのか?

「 思いやりの心 」の大切さを一生懸命に説き続ければ
私たちは皆、本当に「思いやりの心を持つことができるでしょうか

実は、
私たち自身をよく振り返って考えてみますと、

私たち人間というものは、
そもそも、

私自身」と、私を含めた「身内」のことしか、
そのままその苦しみや悲しみを味わうことができません

もともとそうなっているのです。

つまり、
別の言い方をすると、

他人の苦しみや悲しみについては、
そもそも共感できず理解もできない性質を、私たちは持っているのです。

こう言うと、

「 そんなことはありません。
私はちゃんと他の人の痛みや悲しみにちゃんと共感できています。 」

と感じられるかもしれませんが、

そういう方にこそ、是非、
次にあげる例を通して、
自分自身の心についてよく振り返ってみていただきたいと思います。

まず、
私自身の苦しみ、痛み、悲しみについて想像してみてください。

失恋した」「怒られた」「病気をした」「怪我をした」「お金がない」

これらの感情は、
実際に私自身が大いに苦しみを味わうことが想像できます。

そして次に、今度は
身近で大切子ども、親、恋人などの身内について、

同じように
「失恋した」「病気になった」「失業した」
などと想像してみます。

すると
自分自身がなった時とほぼ同様な衝撃や苦しみを感じることがありますし、

場合によっては、私自身の苦しみ以上のものを味わうこともありますし、

大切な身内に大きな危険が迫っていれば、
思わず身を呈して守ろうとしたり、
できればその苦しみを替わってあげたいとさえ思うものです。

人間の本能の一面です。

では、次に、
全く赤の他人」について同じように想像してみてください。

果たして
全く同じように感じることができるでしょうか?

私は、
身を呈してその危険を回避しようとするのか?
本当にその苦しみについて自然に共感できるようになっているのでしょうか?

さらによく、素直に、
自分の心を観察してみると、

他人の苦しみについて共感するということは、

実は、
その他人の苦しみを
私が同じ目にあっていたらと思うと辛い 」
大切な身内のことだと思うと悲しい 」

決して他人事だと思えない

などと、瞬時に、
自分、あるいは身内の苦しみに変換して
あたかも私の苦しみのごとく共感する仕組みになっていることに気づかないでしょうか?

つまり、
私たちは、私自身と身内の苦しみについては自然に共感することができますが、

私たちは、「他人の痛み」を直接感じることはできないのです。
それを自分のことのように置き換えて初めて、間接的にその痛みに共感ができるものなのです。

ある意味、
思いやりの心 」にあふれている人とは、
つまり、他人の痛みをあたかも私自身の苦しみに変換する能力の高い人であり、

「 思いやりの心 」が無いといわれる人は、
その置き換え能力が低いということなのです。

この
他人」と「身内」についての私たちの心の決定的な断絶
その本質的な人間性について、正確に理解をすることが大切だと思っています。

さて、
大変長い前置きで申し訳ありませんが、、、

本当に長くなってしまったので次回に続きます。
<続く>

※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。

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