副住職の法話推敲記録ノート

仏教と儒教の本質的な違い

仏教とは何か? 儒教とは何か?
大きなテーマを取り上げるつもりはありませんが、
(それを取り上げるとすると、私の能力を超えてしまいます)

仏教と儒教との
本質的な違いを一つ指摘したいと思います。

 

それは、
両方とも宗教ですから、
私たち人それぞれの「生き方の指針」を示すものであるのは間違いありません。

 

そして「儒教」とは、
(端的に私が表現を試みようとすると、)

理想的で平和でトラブルも少ない素晴らしい社会をつくるためには
王や官僚や、庶民もそれぞれ、それぞれの立場で儀礼や「仁、義、礼、智、信」、「父子、君臣、夫婦、長幼、朋友を大切にすべきだという教えです。

 

つまり、
あるべき社会の姿」が常に念頭にあって
その為に、私たちは何を心がけていかなければならないのか?

それを明らかにした(しようとする)教えだと思います。
(その具体的内容についてはここで触れるつもりはありません)

 

しかし、これに対して「仏教」は、
実は、「どうしたら社会がより良くなるか」という考え方が、そもそも存在しないものなのです。

 

あえて言ってしまえば、ある意味「社会」という概念すらそもそも無く、あくまで私たち「個人の生き方」についてのみの教えであるのです。

くどいようですが、
仏教は「社会のあり方」については何も言及しないのです。

 

それは、「仏教」を始められたお釈迦さまが、

何故、私たち人間は苦しんでしまうのか?」
「どうして、こんなに豊かなのに、何故、空しくて空しくて仕方がないのか?」
「何故、老い病いという苦しみから、誰も逃れられることができないのか?」
苦しみだらけのものなのに、何故、誰も生まれることから逃れられないのか?」

 

お釈迦さまが、お釈迦さま自身の存在をかけて
それら自らの疑問を解き明かしたのが「仏教」なのです。

 

ですから、その教えは、
「まず、もともと全て苦しみだらけであることを知り覚悟し)ましょう」
「その苦しみの原因が、私たちの『思い』であることを知りましょう」
「その『思い』を調えれ(無くせ)ば、苦しみが和らぐことを知りましょう」
「その『思い』を調える(無くす)、方法を知りましょう

などとなるのです。

 

このように、私がこれまで、
お釈迦さまの言葉を読んだ限りでは、
「社会のあり方」についての言及はありません。

しいてあげれば、
「出家者」「在家者」など立場の違いによる修行のあり方や心持ちなどについてはあるのですが。

 

儒教」のように、
何故、世(社会)は乱れてしまうのかどうしたら、乱れない平和な世の中になるか?」
として(おそらく)出来たものではなく、

仏教」は、
「何故私たち人間という存在は、誰も苦しみから逃れることができないんだろう?」という、
その出発点が根本的に異なっているのです。

 

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  1. 失礼致します。

    「仏教の根源的な問いは、まさしくタブー、、、」で思ったのですが、

    先日、何気なしに、ラジオを付けたら、
    ある歌手がカバー曲として歌う、
    「アンパンマンのマーチ」がかかっていました。

    それを聴きながら、普通の大人が、ダサい、かっこ悪い、気にした時点で負け、と思い、見て見ないふりをしている「根源的な問い」に、ふと引っかかる人も結構いるんではないか、じゃないと、こんな時間にこんな曲流したりしないのでは、と感じたことが有りました。
    (私は個人的には人間の営みには「たかが」の側面と「されど」の側面が分かちがたくあると思っています)

    何の為うまれ何をして生きるのか答えられないのが嫌、
    何が幸せ、何をして喜ぶ、分らないまま終わるのが嫌、
    時は早く過ぎ光る星は消える、、、、。

    このアニメ、子供はだいたい5歳ぐらいで卒業するそうな。

    この何の為という問い、何処から来てどこに向かうという疑問、いずれ(自分も宇宙も)終わるという閉そく感。
    5歳の自分には切実だったなと思い出しました。
    一つの解決法としては本当に集中できるやりたい事、好きな事が見つけられる事なんですよね。(違う形でこの歌にも表現されてますが)

    数日後、

    先ほどの事とは違いますが、

    新聞の書評に、大学教育の事が書かれており、
    プラトンはなぜアテナイの市域から1キロ半も離れた郊外のアカデメイア(アカデミー)に学校を作ったかを述べていました。

    彼の師匠であるソクラテスはアテナイの街角で人々に生き方を問うた。
    人々が政治の駆け引き、商売や生活を営む場所で、

    「正義とは何か、幸福とは何か、貴方は知っているのか」

    と問いかけた。

    今の時代なら、

    「は?」「ダッセ―!」「何かの宗教?」「馬鹿なこと言ってないで良い学校行く為勉強しろ勉強!!」

    で、済むかも知れませんが、当時のアテナイ市民にとってはその問いかけは自分たちの築き上げた精神的支柱(当たり前、自明、常識)を揺るがす(根源的な問いだけに)反社会的な破壊行為であり、政治的陰謀に映った。
    結果彼は死刑になった。この事が教訓になったそうです。

    勿論これは宗教では無く学問の事なので、おのずから、宗教とアプローチや目指すところは違いますが出家ほどではないにしろ、
    社会という集合からある程度距離を置く事が「学問」と言うものにも必要なのかと感じた次第であります。
    勿論学問の成果がどれぐらい社会に還元されるのが良いのかという事もあります。

    1. y.kさん
      コメントありがとうございます。

      「何のために生きるのか?」「何が幸せか?」
      「正義」
      これらの問いに対する答えは、

      その時代、地域における社会の要請によって、
      影響を受けざるを得ないものあって、不変の何かがあるものではありません。

      今は一流のプロ野球選手は高給を貰えて幸せでも、
      野球というゲームが無い時代では評価されませんし、

      武器を持って闘う戦争が常態化している地域、時代では、
      腕力や武勲が評価されていたのでしょうし、

      現代ではIT技術をより利用できる人が、
      より豊かになり得ます。

      仏教の根源的な問いとは、
      その社会のあり様、そのものが諸行無常であって、

      だからこそ、幸せも不幸せも無いという立場なのかと思います。
      だからこそ、現代日本社会で生きる私たちにとって、タブーであるのだと思います。

  2. 失礼致します。

    何故空しいか。
    生まれることから逃れられないか?

    これを読み、仰りたい事と意味が違うかもしれませんが、
    二昔前の月並みで定番のドラマシーンにある様な気がする、

    学生
    「人間て、何の為に生まれ、何のために生きているんだろう?」
    学生の親
    「馬鹿なこと言ってないで、良い大学受かる為勉強しろ!勉強!」

    てな感じのシーンを思い浮かべてしまいました。

    はぐらかさずに本気でこのタブーに近い問いを聞くのは危険な事かも知れませんね。

    どうせ死んでしまうのに何故?と言っているに近い、この問いの前には、人間が作り上げてきた膨大な努力の体系、価値観、倫理、道徳、善悪判断、文化、文明、伝統、と言ったものが、否定されかねない。

    そこまで大げさで無くても、親にしてみれば、家族の為に頑張っている自分の人生や価値観、自分の存在の意味、意義に、たかが十数年しか生きていない若造に揺さぶりをかけられてしまう。

    もちろん、はなからそんな事に躓かない、気にはならない人もいるでしょう。
    それこそ
    「吾、未だ嘗て生を知らず、、、」
    であり、問うてもせん無い事です。
    そういう人は社会の制度設計に向いている。
    社会の在り方をかんがえるのに向いている。

    以前私が読んだ本の中の「儒教は優れて政治的な宗教である」と指摘する意見を見てみると、
    儒教が政治的であると言うと意外だと思う日本人は多いが、
    政治の最高道徳とは、国民の経済生活を保障する事であり、孔子や孟子の説でもある事。「経済」とは「経世済民」の略であり、「世を経(治め)め、民を済(救う)う」事、つまり有効な政策で民の生活を保障する事。が述べられています。
    また、為政者に求められる徳についても、その人物の功績が非常に高く、それなくして繁栄がありえなかった人物を評する時、孔子は、その人物の個人的スキャンダルや、その功績に至るまでの手段としての血なまぐさく残酷な悪逆非道な行為は不問に付したそうです。
    「彼が居なければ、危機を脱せなかったし、その後の国の繁栄を思えば、
    それしきの事どれほどの事やあらん」とのことです。
    これ、別に、法家の韓非子やマキャヴェッリが言った事では無いのですよ。
    と言う事が述べられていました。

    救済という観点から見ると、個人救済ではなく、集団救済なのでしょうね。

    1. y.kさん
      コメントありがとうございます。

      社会的な存在である人間にとっては、
      仏教の根源的な問いは、まさしくタブーでしょうね。

      ですから必然的に、
      修行僧は社会を捨てて、出家をするのだと思います。
      儒教者は出家せず、それぞれの国の官僚になるのですから、

      この違いは、まさに本質的なものだと思います。

      実は、この続きは、
      仏教者が政治、社会を語る時に気をつけなければならないことを書こうと思います。

      仏教者が、親孝行などをさも仏教の教えのごとくお話することがありますが、
      仏教は儒教とは本質的な違いがありますので、混同してしまうのは違和感があります。

      もちろん、歴史的経過でさまざまな土着信仰や思想が混在し、今の形の仏教として残っているのですが。
      私なりに表現をしたいと思います。

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