副住職の法話推敲記録ノート

だから、仏教者の「不殺生戒」でも「死刑制度賛成」は、矛盾しない

⇒前回 『そもそも、個人と国家を混同していいはずは・・・』 からの続きです

 

死刑制度」について、仏教者は、
不殺生戒」があるからと、廃止論を説くのがあたかも当然であるかのようになっています。

 

なので、表題の
不殺生戒」でも「死刑制度賛成は矛盾しないなどと発言してしまえば、
それでも仏教者なのか!」などとお叱りを受けるかもしれません。

 

しかし、実は、
仏教とは個人の生き方についてのみの教えであって、
「国のあり方」についての教えではありません。

 
仏教は国のあり方に言及をしない立場です。
⇒「仏教と儒教の本質的な違い」

 

ですから、
本来仏教者は、「国のあり方については
仏法を持ちだして論じることをしないのが、正しいあり方ではないかと思います。

 

それでもあえて、
「国のあり方」について仏法を持ちだそうとする場合は、

 

そもそも、「個人の生き方」と「国のあり方」については
役割が全く別次元のものであったり、表裏一体とも言えるものなので、
その両者を混同したり同一視してしまわないように留意しなければならないと思います。
⇒「そもそも、個人と国家を混同していいはずは・・・」

 

ですから、例えば、
死刑制度」が凶悪犯罪の抑止力になると考え、
だからこそ、
個人の「不殺生戒を保証しうるという「仏教者」がいても、
矛盾ではないし、不思議なことでもないのです。

 

そして、もちろん!?
(副住職)は、「死刑制度」に犯罪抑止力があると考えているのですが、

一方、
住職は「死刑制度廃止の立場なので、
しばしば議論をすることがあります。

 

仏教者だからと言って
不殺生戒」=「死刑廃止」ではなく、
様々な立場があって、議論していけばよいと思っているのです。

 

<補足>
お釈迦さまは「国のあり方」については言及されていませんが、
「個人のあり方」として、「殺生をすることに関わるな」と教えられています。その意味で「死刑執行官」などについて、仏教はどう考えるのかという議論もありえます。

 

⇒旧ブログはこちらからご参照ください

 

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  1. 失礼致します。
    同じ記事に3回もコメントを書きこんでしまって申し訳ありません。(いい加減次の話に持っていきたい事だと思います。引き止めて申し訳ありません。)

    「アクト オブ キリング」

    ネットで予告編やプレビュー等を調べてみました。まだ見たわけでは無いので、無責任には内容について述べられませんが、

    これ、無法の殺戮には違いは有りませんが、無秩序にではなく権力側公認と言うべきか、秩序のもとに行われる暴力もままある事であると、 いう事ではないでしょうか。

    勿論、秩序の中で行われる、正義を振りかざしての殺戮、粛清、差別、悪法、権力闘争、世界を見渡せばいくらでもあるのでしょうが、、、、。

    恐ろしいのは正義を振りかざしている者たちが、本当にそう思っているという事が、ままあると言う事かも知れません。

    なぜ、こんなに真面目で、清廉潔白、高潔な指導者がこんな残虐な殺戮を指揮したのだろう、と、言った事が歴史の書物に出てきたりしますが、
    「どこで、彼は変貌したのか」
    という問いに以前より違和感を感じていました。変貌したのではない、真面目で、清廉だからこそ、純粋に大真面目で徹底的に不浄の輩を抹殺するつもりでやったのだろう。

    寧ろ、現実の一面としてはずる賢い俗物の方が、正義に酔いしれていない分まだ取引が出来る、交渉す余地が有る。妥協できる。まさに

    「無知(無自覚)な善人は悪人よりタチが悪い」

    のです。

    この前ロベスピエールの事を書きましたが、
    近代デモクラシーも始まったばかりの頃は、
    (旧秩序を打ち倒す事で成り立つのだからこれを言い始めるとどんな新秩序も同じプロセスを経ると言えますが)
    いや、始まってかなりの時代を経てもデモクラシーという体制は悪い意味にとられる事が多かった。
    ロベスピエール=恐怖政治=民主主義
    と言う図式がかなり後の時代まで拭えなかった。
    民主主義と言えば暴民政治、衆愚政治、と言う意味だったのです。

    また立場の違いや時代の流れによって、評価などコロコロ変わるものです。

    ある小説で、旧日本軍の憲兵で、戦犯として追われている主人公の、母親が、
    確か地元の有力者に
    「隠しだてするな、彼は戦中赦されない事を行った」
    と言われた事に対し、
    「戦中あれだけ地元の出世頭だと褒め称え、お国の為に尽くせと、推奨していたのに負けたら、手のひら返したように犯罪者扱いする。あんたに人の事をとやかく言える資格は有るのか」
    と言うような事(うろ覚えですみません)を言い返していたシーンを思い出しました。

    他にも立場がひっくり返る事はいくらでもあります。

    昔見た美術関係のテレビ番組で紹介されていた2枚で一対の絵の話ですが、

    一枚目は戦車に乗った秘密警察だか憲兵隊だかの治安維持部隊が行き交う全体主義的、警察国家的なある国の街の風景が描かれており、民衆に自由は無く、容赦なくその憲兵部隊?に取り締まられている民衆の様子が描かれており、

    二枚目は、テロか革命?まあその様な群民蜂起的な何かが成功した後の様な様子が描かれており、今や官軍となった民衆は今や賊軍となった旧政府の兵が乗る戦車を引き倒して、中の兵を引きずり出しリンチを加えているといった絵でした。
    2枚ひと組のその絵の題名は、
    「同じ事」
    でした。

    「法秩序」いかに大事か、あらためて考えようと思います。
    同時に、「秩序のあり方」をも考えてみようと思いました。

    1. y.kさん
      コメントありがとうございます。

      「自分が正しい」「自分が正義」という
      もっとも甘美な悦楽は、
      人間を狂気に駆り立ててしまうものなのでしょうね。

      映画『アクト・オブ・キリング』、
      また挙げていただいたいくつかの事例は、
      非常におぞましく、目を背けたくなるものですが、

      決して別世界の関係ない話ではなく、

      例えばネット上でも
      他人の間違いを追求する「炎上」は、自分の正しさを味わう魔力がその根本に大きく横たわっていますし、
      モンスター化する我々の権利意識には、

      自分の正当性を主張することと、他人を(完全)否定することの表裏一体があり、

      実は、何気なく日常私たちが行っている、
      「自己正当化」の延長線上にあることなのです。

      そして、私のこのブログも
      「誰にもできない(気づかない)仏教の表現を、私だけが何とか形にできないだろうか?」
      という、

      私だけが特別(誰よりも)正しくありたいという欲望を抜きにはできません。

      人は誰しも、
      「自分(だけ)が正しくありたい」と欲望を持つものであるからこそ、
      集団のなかで大小さまざまなトラブルを起こし続けています。

      だからこそ「法秩序」、
      あるいはその社会における「倫理性」などの集団で社会を営む上での、指針、工夫などが不可欠であると思います。

  2. 度々失礼致します。
    光市母子事件など特にこの制度の役割を大きく感じます。
    被害者側が、国家への信頼を捨て、無頼の人となり復讐の鬼となるという最悪の事は避けられたと思います。

    人は変わり得る、この人物も何時かは、、、と言う「超人的視野」をもち「長大なスパン」で物事を考えるという「恩讐を超えた精神のステージ」には人々は今時点ではまだ立っていません。そうである限りやはりこの制度は続くでしょう。いきなり制度廃止は無理かと思います。

    もう一つ付け足すなら、
    「権力側が個人の復讐権を取り上げたうえで、国家は被害者の個人的復讐を果たす為では無く、あくまで国家の存続の為、社会秩序を乱す、『国家反逆者』を処刑するのが主目的で、被害者の救済はその過程で必要だからする事であり、ついでの域を出ない」
    という批判もありますが、

    敢えてそれでもよいと思っています。

    個人的な事も公の場に出される事により復讐と言う意味合いが薄れ秩序維持という面目、建前になり「中和」される事となる。

    個人では背負いきれない責任と覚悟がいる事も国家が汚れ役となることで「解毒剤的作用」を期待する事が出来る。

    死刑執行官については、「国家の役人である死刑執行官」という汚れ役が泥を被ってくれるからこそ、
    関係があまりない一般人である我々が制度について色々議論できるのであって、国家の解毒作用を有難いと思わねばと思いました。

    社会は、というより公共の場は立場や主義主張、信念、の違う人が一緒に集まっている場です。
    国の法律は道徳としては最低限だという意見もありますが、立場が違う人が暮らす社会の現時点でのギリギリの妥協点であり、現代日本ではお寺もまた世俗とのかかわりの中にある。

    以前建岳様は、仏教は現実そのものを観ると仰いました。

    まさに、世俗と何をどう、どの程度、どういう主張で関わっていくのかと言う事になるのでしょうが、
    「不殺生戒」だから「死刑廃止」これについては、この記事の内容を読んだ僧職の方々が、どうお感じになったかをお聞きしてみたいと思いました。

    1. y.kさん
      コメントありがとうございます。

      先日たまたまFBで知った、
      映画『アクト・オブ・キリング』を観てきました。

      この映画は、
      インドネシアで1965年から1966年にかけて行なわれた100万人とも200万人ともいわれる大量虐殺の、
      その加害者たちが、自分のしてきた虐殺を、自らが出演し、自らが製作する映画の、
      その過程を追ったドキュメンタリー映画です。

      彼らは「全く」罪悪感を感じることなく、
      インドネシア社会の権力者として君臨し続けています。

      そして、その無法の虐殺を繰り返してきた「パンチャシラ青年団」が
      国民の圧倒的多くの!?支持をうけている現実。

      法を無視した、自分達が正しいという殺戮の悲惨さ、
      そして、人間はそこまで残虐になっても、全く罪悪感を感じないその悪い意味での可能性に、
      心と身体が怯えて震えます。

      この映画を多くの方が観ていただければ、
      法秩序の大切さが実感できるはずです。

      また、仰るように、
      復讐権の解毒作用として、現在の死刑制度が一定の役割を果たしていると思います。
      だからこそ軽々に、死刑廃止とは言えないのではないかと個人的に感じています。

      仏教には「不殺生戒」があり、
      どんな命も大切にする教えだから「死刑制度」は廃止するべきだと考える僧侶は非常に多いと感じます。

      私は、
      仏教には「不殺生戒」があり、
      どんな命も大切にする教えだからこそ、個人個人がその教えを守って安全に暮らしていけるように、
      「国家」としては、あえて「死刑制度」が必要なのではないかと考えています。

      仏教の業界紙などにこの一連の記事を投稿すれば、
      お叱りをふくめ、どのような反応があるでしょうか。
      興味深くも思います。

  3. 失礼致します。

    この回の建岳様のお話は、以前どこかで私が読んだある人のブログの中に出てくる、

    「何を以てテロリズムと定義するか」

    と言う話と関係があるなと思いました。

    個人が国家(政治家、役人)になり変ってその役目を簒奪するとどうなるのか、
    以前、と言っても高校生の頃ですが、私はテレビや映画に出てくる特撮物のヒーローは何故、素性を隠しているのだろう?どんなやましさが有るのだろう?と思った事がありました。

    月光仮面はどこの誰だかわからない。スーパーマンは新聞記者クラーク・ケントであるとばれたらどうなるのだろう?

    ああそうか!無許可なんだ!彼らは非合法の無頼の輩という点で悪の組織と同じ穴のムジナなんだ!正式な手続きを踏んでいないので、ただの大量リンチ殺人者なんだと言う事に思い至りました。

    そのある人のブログによると、偏った独善的判断に限った事では無く、広く世間の喝采を浴びる事であっても、(社会が正常に機能している場合という条件付きではありますが)
    「正しさが法と秩序より優先する」ならそれは、「テロリズム」です。(何が何でもテロリズムが悪いと言っているんではありません。)

    しいたげられた者への同情など一見もっともなものの中にテロリズムの付け入る隙がある。フランス革命も、弱者への同情に根差したロベスピエールは断頭台で多くの人を粛清し、恐怖政治を行い、やがて革命やテロルの惨劇に疲れたフランスは始まったばかりの民主主義体制を、秩序を与えてくれるナポレオンに売り渡してしまったではないか、革命を始めたころの中心人物だったラファイエット伯は、ナポレオンの登場を大いに歓迎した。民衆もそうだ。

    テロや内戦に疲れて、デモクラシーが安定を保証する独裁者に簒奪されることはありえるのです。

    近代国家の中のおいては、思想、信条、良心、の自由が保障されますが、
    個人が正しいと思う事を社会に反映させようと思えば、
    「手続き」
    これをふむ事が大事です。若し死刑制度に反対なら、それに一切かかわらない旨を手続きにより訴える。逆に死刑制度反対を民衆に訴えかけるのも、選挙と言う手続きをえて、国会で訴えると言う事になるでしょう。

    では私の死刑に対する見解ですが、

    世の中や人の心も移ろい行きます。赦せない事も何時か赦せるかもしれませんし、復讐は不毛だ。それに、どうにも救いようがない者も何時かは変わりえる可能性があるかもしれません。

    ただし!

    これが通用するのは、超人的な視野の広さを持ち、長大なスパンで物事を考える事が、一般的であるならその場合に限ってです。

    現時点での私では耐えられそうにありません。

    だから死刑制度やむなしです。今の市民道徳で殺人が罪になる以上、国家がその汚れ役を担ってくれるのは有難い事です。国家は幻想であり物語かもしれませんが、安心して思考停止させてくれるのは、日本国家の運営が上手くいっているからでは無いでしょうか。

    あと一つ死刑制度やむなしと思うのは、
    犯罪被害者が国家への信頼を捨て無頼の徒になるのだけはどうしても避けたい。それではあまりにかわいそうだ。

    今の一般の人間のありかたや思考形態のまま、死刑制度が廃止されれば、私刑(リンチ)が横行するかもしれない。
    時代劇の話みたいに仇打ちや、あるいは、自分で仇は討てなくても中村主水の様な殺し屋が横行するかもしれない。それでは国家として終わっている。

    話を戻して、、、
    主権者は国民ではないか?
    その通りです。
    思想、信条、良心の自由は保障されています。勿論、仏教者にも。
    だから正式な手続きを踏んで権利を、権力を行使してください。
    と言う事です。
    建岳様の、あくまで仏教者としての立場に限定してと言うありかたは重要なのでしょうしその範囲の中での最大限の表現に、よくわきまえられておいでなのだなと思います。

    1. y.kさん
      コメントありがとうございます。

      なるほど、ヒーローにも
      社会秩序を無視してしまっているからこそ「後ろめたさ」があり、
      だからこそ正体を明かすことができないのですね。

      そして、それもテロであると。
      鋭いご指摘と思います。

      私個人の死刑制度に対する立場は、
      『死刑問題は様々な立場によって、考え方が変わってくる問題であり、

       冤罪の発生リスクを考えれば、死刑制度廃止の立場になり、

       一方、突然、最愛の子ども、恋人が、全く理不尽な形で犯罪被害者として亡くしてしまった場合に、それでもその当時者(遺族)として、死刑廃止を言えるのかという問題があり、もちろん、死刑廃止を納得される方もいるのでしょうが、光市母子事件のように、死刑判決が大きな役割を果たしたことも、ひとつの現実です。

       そして、子どものころから、「悪いことをしたら、死刑になる」とサブリミナルに育った私たちと、「どんな悪いことをしても、最悪、命まではとられることはない」という環境で育った場合に、その凶悪犯罪抑止力の違いはどのようなものか?なかなか現実に実証することが難しい問題があります。

       そのような、立場の違いによる意見、それぞれ全て傾聴に値し、そしてそれらを総合的に考え、人によって重点が違うからこそ、意見の違いがあるのだと私は思っています。

       そしてその上で、私自身は死刑制度について制度維持という考え方を持っています。』

      このような複雑な問題について、「不殺生戒」だから「死刑廃止」という一面的な捉え方について、今回は問題提起をしたつもりです。
      今後も私なりに、この問題について考えていきたいと思っています。
      どうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m

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