副住職の法話推敲記録ノート

周りを優先することの難しさ

⇒前回 『聖人のオーラ』 からの続きです
前回のブログでは、

自分よりも周りの人を優先できるようになること、
そのことで
聖人のオーラ」が滲み出てくるような人格

その姿が、
仏教の目指す一つであることについて書きました。

 

それならと、
できるだけ自分のことより周りの人を優先して、
他人のために頑張ろうとしようとしても、

 

実は、
この「自分よりも、周りの人を優先できるようになること」
別の言い方すると、
自分(自我)を弱めて自分以外のものを優先すること」は、

 

言うは易し、でも、行うは難し

 

なかなか、
心がけようとすることすら難しいことなのです。

 

心がけることすら難しいのですから、
その人格の完成はなおさらです。

 

例えば、
「私は子どものためなら、どんなことでも自分を犠牲にできる」
というような想いと行為、

あるいは
自分よりも、家族恋人、友人などに愛情を注ぎ、その人を守り、そのために力を尽くす、

 

それらの行為は尊くて
人として当然であっても、

聖人のオーラ」が滲み出てくるようなものには、なかなかならないものです。

 

これは、
「他人のためにやっている」というよりも、

むしろ、
子ども恋人などが「自分の大切な存在」として、
あたかも自分自身」のことのように思う行いで、

 

つまり、
自我」が「自分以外のもの」にまで拡大し、肥大化する、
自分が弱まるどころか、逆に強化され

 

私の大切なものを、他から守りたい
私の大切なものを、その他のものより、良くしたい。

そう思えば思うほど、願えば願うほど、

 

ひとたび、
その大切なものが危険にさらされれば
なりふり構わず、「その他」を攻撃し、排斥しかねない

 

まさしく「自分自身のこと」のように、
「自分」が悲しまないように、満足するように、納得できるように・・・。

 

他人のため、周りのためと思っていても、
自分は気づかないだけで、
自分のため。

 

ボランティア」活動なども、
もちろん他人のためにされていることですが、
自分自身の充実感、満足感と切り離すことはなかなかできません
全く感謝されないボランティア活動でも、継続できるのであれば別ですが)

 

よくよく
自分の胸に手をあてて考えてみると、
自分の行いほとんど全てが該当するはずです。

言ってみれば、
私たち人間の行いは、
自分自身への見返りを全く無視して行うこと
できない、ほとんど不可能な仕組みに、そもそも なってしまっている のです。

 

実は、
仏教の(本来の)「布施行」とは、

この「自分のため」という人間の本質!?に
あえて挑戦し、その克服を目指すものなのだと思います。
だからこそ、常人ならざるオーラが醸し出されるようになるのだと思うのです。

 

 

念のための補足ですが、
身近な人を思うこと、ボランティア活動などを、否定する意図は全くありません。それぞれ意味があり価値のある行いです。
仏教の布施行との違いを指摘しようとする意図のみです。

 

 

⇒旧ブログはこちらからご参照ください

 

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  1. 度々失礼致します。

    仰る「布施行」の話を聞き、
    これは所謂、倫理とか、道徳とかと、あり方を異にするか、それを超えたものの様に感じます。

    前に書いた仕事中の、(どうにも仕方無いという状況ではあったのですが)結果としての手伝いも、

    仕事の倫理から見れば、
    労働時間内の行動は雇い主に対し使われるべきで、本来あるべき事項としては例外に属する事。

    商道徳から見れば、
    「顧客」と「私(販売員)」双方にとって得をするという互恵関係の均衡点を模索することが大事とされるでしょう。
    もし私がこの出来事を上司に報告したら、
    「何で、名刺を渡してアピールしなかったのか!」
    と、怒られ、呆れられると思われます。

    最初からそれを期待しないで行うと言うのは、
    そもそも何の下心も無いのだから、
    ただそうであっただけということで、
    落胆も諦めも必要無く、楽なのかもしれませんね。

    1. y.kさん
      コメントありがとうございます。

      私たちは、
      いついかなる時も!?、ほとんどの時、

      「自分の行動の価値」
      即ち、その行動の自分にとっての利益、意味などを
      無視して行動することができないようになっています。

      その本質的に身勝手な!?人間性について
      「布施行」は挑戦していくものだと思います。

      一方、
      倫理や道徳、モラル、法などは、
      それらの身勝手な個人個人が起こす様々なトラブルに対して、

      交通整理をするための生活の知恵として、

      事後的に生み出され続け、
      時代の要請によって変化し続けていくものですね。

      その本質的な違いがあると思います。

  2. 失礼致します。

    大切なものが危険にさらされればなりふり構わず他を攻撃する。

    絆の深さや結束が美しい「共同体」の持つ危険な一面ではあると思います。
    ある社会学者が言う、この範囲では「公」では無く「私」的領域の延長程度であると言うのはこの事ですね。

    全く感謝されないボランテイア活動。

    もっと言うと嫌われる場合もある活動。

    あり得ると思います。
    それとは少し違いますが、ある作家が、
    「難民と聞いてどんな人々を想像しますか?
    現場の仕事に携わって感じたのは、ある意味の逞しさです。
    彼らの境遇が如何に綺麗事を言っていられない深刻さが有るかと言う事ですが、
    彼らが生き延びる為には如何に意地汚いか、ずる賢いか、卑怯か、
    それを目の当たりにしても尚且つボランテイア活動が出来ると言い切れるなら『本物』だと認めます」
    この様な事を言っていたのを思い出しました。

    しかし、全てが何がしかで他と繫がる事で成り立っている(互恵関係)我々と言う存在は、本当に見返りを無視して行動するのは難しいと思います。
    慈善事業ですら「徳を積ませて頂いている」という「見返り」が来てしまう。

    自分の話で恐縮ですが、
    以前私が営業の仕事をしていた頃ですが、

    なかなか売り上げが上がらず、一つでも多く取引先を回らなくてはならなかった時、

    細い道(一方通行)である車が溝にハマり渋滞となっている処でそれに巻き込まれかなりな時間のロスを食らう事になったのですが、
    溝にはまった車の持ち主からは手伝ってほしいと言われ、私も後続の車のドライバーに助けを呼掛けたのですが、
    「悪いが急いでいてそんな暇が無い」
    と言う返事ばかりで、後続車の多くはわずかな隙間を逆走してすり抜けるか、バックで後退していきました。(彼らを責めるつもりは毛頭ありません。)
    何とか手伝ってその車を引き揚げるまでにさらに時間がかかってしまいました。相手からはお礼の言葉と謝罪の言葉を頂いたのですが、、、、、

    結局その日も売り上げが上がらず、上司からは、
    「売れないのは誰のせいでもない。お前の人間性、人格、仕事にかける意気込み、努力、全てにおけるお前のレベルの低さが現れている」
    と言われる始末。(手伝った事などは仕事とは関係が無いので誰にも言いませんでした。)

    その時ついうっかり私は、
    「今日私がした誰かを手伝うと言う行為が自分の仕事の成果に結びつくわけでは無いんだ」
    と思ってしまったのです。

    それとこれとは別であるにも拘らず。

    そんな事を一瞬でも考えてしまった自分が情けなくなりました。
    上司の言う通り人格的レベルの低さが表れていますね。

    何かした事に対し何らかの見返りを求めてしまう。
    そんなところに自己嫌悪感を感じる事が有る。
    しかしそれをなくすのは難しい。
    なかなかやっかいな事ですね。

    1. y.kさん
      コメントありがとうございます。

      ボランティア活動は、実際にそれを必要とされる人がいて、
      実際に役に立ち、ためになる活動をされ、

      非常に貴重で意味のある行いであることは間違いありませんが、

      だからと言って、
      自分よりも周りを優先する行いには、なかなかなりえないことは、
      私たち人間の悩ましさの一つだと感じます。

      自己満足に帰結しない、自分よりも他人を優先する行いについての
      リトマス紙は、

      まさしく、
      『・・・、彼らが生き延びる為には如何に意地汚いか、ずる賢いか、卑怯か、
      それを目の当たりにしても尚且つボランテイア活動が出来ると言い切れるなら『本物』だと認めます』
      でしょうし、

      あるいは、
      全く感謝をされなくても、嫌われても、
      相手のことを好きじゃなくても、あるいは嫌いでも、

      それでもその貴重な活動ができるのか?
      ということかもしれません。

      仏教の「布施行」とは、
      まず、そもそもその好き嫌いなどの利害関係から離れることを大切にしていますが、
      なかなか、私たちはそこから離れることは難しいことだと感じています。

      y.kさんの
      お仕事途中の人助け、とても素晴らしく思います。
      それでも、どうしても、自分にどんなメリットがあるのか考えざるを得ませんね。

      私こそ、宗教家、僧侶ですから、
      困っている人がいれば、無条件で助けるべきものですが、
      どうしても、その見返りについて心がとらわれてしまい、行動が制限されることがあります。

      本当にやっかいだと思いますし、自分の未熟さを感じています。

  3. はじめまして。
    自分より周りを優先するということは、ほんとに難しいことだと思います。
    私には仕事(介護職)、家族もあり家事・子育ての中で他人のため、家族のためと思うとどうしても私は、「こんなに皆のために頑張ってるのにどうして・・・」などと恩着せがましく見返りを求めてしまいそうなので「これは、全て自分のため・・・」と思うようにしています。
    仕事の中で、介護を必要とする高齢者の方に「どうもありがとう。こんなことまでさせて悪いね。。」などと言われボランティアではなく賃金を頂いているので、大変恐縮してしまいます。それで利用者様に「いえこれが私のお仕事です。しっかり賃金を頂いているんですよ」と告げるとホッとされた表情をされます。その表情を見て私もホッとします。人の為にした行為でも、された方は悪いなと思う人もいらっしゃいます(日本人にはこういった人が多いのではないでしょうか)他の仕事をされている方でも生活のためで他の人のためと思って働いてらっしゃらないかもしれません。賃金という見返りがあっても結果的に人の役に立っていると思えるのです。
    自分のためと思えば乗り越えられる困難もあり、結果的にはそれが人の役に立ててれば良いなと思います。
    私は、仏教の知識に欠け、仏教の考え方に添わないかもしれません。。。すみません。。。偶然、タイトルが目に止まりコメントさせていただきました。
    少しでも仏教を学び、実生活の中で活かすことができ、人のお役に立てますように・・☆☆☆

    考える機会を与えて頂きどうもありがとうございます。感謝です♪

    1. 小百合さん
      コメントありがとうございます。

      こちらこそはじめまして。

      私たちは、周りの人のために一生懸命頑張っているつもりでも、
      (一生懸命であればあるほど!?)
      気づかないうちに、相応の見返りを求めてしまうものですね。

      小百合さんは、
      しっかりとその人間の本質的な悩ましさに気づかれて、
      現実的に対処もされていて、とても素晴らしいです。

      『自分のためと思えば、乗り越えられる困難もあり、
       結果的にはそれが人の役に立てれば・・・』

      私たちの生き方、過ごし方の貴重な指針になると思いますし、
      まさしく『菩薩』への第一歩なのではないかと思います。
      貴重なお話をありがとうございます。

      このブログを書いている
      私自身が、ほとんど出来ていないので恐縮ですが、
      私なりに、仏教の「布施行」について書いてみたいと思っています。

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