副住職の法話推敲記録ノート

仏教の布施行

⇒前回 『周りを優先することの難しさ』 からの続きです

仏教の「布施行」とは、

 

「自分よりも周りを優先しようと心がけても
自分への見返りを期待せざるおえない」

 

この人間の本質に挑戦し、
克服を目指すものだと思います。

 

この「布施行」を積むからこそ、

我が弱まって
周りの人の居心地を良くし

そして聖人のオーラが滲み出てくるようになるのです。

 

ではその、
仏教の「布施行」とはどのようなものでしょうか

 

お釈迦さま(ブッダ)が、
実際に話された言葉をそのまま編集し、
最も古いものとされている 「スッタニパータ」 は、

中村 元氏訳 「ブッダのことば」 で読むことができます。

 

その一つに、
お釈迦さまが、ある人(バラモン)に法話を説かれ

そのお礼として
お布施(乳粥)を渡そうとした時に

お釈迦さまが言われたことが書かれています。

 

『 法話を説いたお礼としてのお布施(乳粥)を受け取ることはできません
そのような決まりになっています。

(それとは別に)
悟りを開いた人に対して、何かのお礼ではなく、ただ無心に純粋に飲食をささげお布施をする行いは、
あなた自身の修行となり、功徳を積むことになる尊い行いです。』
(これは、私なりの意訳がかなり入っています。中村元氏「ブッダのことば」該当部を最下部に載せておきます。さらに興味のある方は、書籍などをご参照ください)

 

これは、
何らかの行いの対価として、あるいは報酬としてお布施(お礼)を、明確に否定しています

 

何かのお返しにお布施をすることは、
代金を支払う経済原理、ギブアンドテイクなどのやりとりと同様に、

私たちは、損したり得したり
その結果に一喜一憂振り回されてしまう

つまり、私たちの
「自分への見返りを求めてしまう本質」を 変えることには なりません。

 

また、
自分を喜ばせてくれてありがとう。
自分を満足させてくれてありがとう
自分を楽しませてくれてありがとう。
自分の悲しみを救ってくれてありがとう。
・・・。

などのお礼を繰り返し続けることも、

 

どんどん我が強くなっていきこそすれ、
我を弱くしていって、周りを優先する人格になることには、なかなか 繋がらない ものです。

 

仏教の「布施行」とは、
このギブアンドテイク、テイクアンドギブ、利害関係から完全に離れて行うこと(完全に離れようと試みること)に、
その本質的な意味があります。
<次回へ続きます>

 

余談ですが!? この点において、
現在のお寺制度を支えている葬儀、法要の際のいわゆるお布施について、
本来の布施行であると言い切ることには無理があるだろうと思います。
※あくまで私見です。

 

引用参照:中村元氏「ブッダのことば」
81「詩を唱えて(報酬として)得たもの、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。」
82「全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。」

 

⇒旧ブログはこちらからご参照ください

 

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  1. こんにちは
    お布施にはそんな意味があったのですね。
    仏教に無知の私は初めて知りました。
    何かしたことには無意識に見返りを求めてしまう
    私です。

    1. Sakulanboさん
      コメントありがとうございます。

      現実のお布施は、
      現世利益を求めるものであったりしますので、
      なかなそうなっていないと思います。

      上座部仏教のところでは、
      そのような布施行になっているのか、興味があります。

      私自身も、なかなか難しいことです。

  2. 失礼致します。

    自分が、何かにつけ、如何に見返りを求めているか、執着心が強いか、期待しているか、

    勝手に期待しておいて、上手くいかないと、(評価してくれないと)
    何故分ってくれないのかと、逆ギレしたり、
    人生が裏切られたと、勝手に思い込み苦しくなる、
    (世の中そんな単純な因果律で動いていない事ぐらい分っているはずなのに)
    「こんなに頑張っているのに成果が出ない。
    評価されない。努力が報われない。
    努力不足だ、お前の認識が甘い!と言われる」

    一喜一優振り回される。
    わかります。

    初めから何も期待せずただ無心にというのがいかに困難か。

    普通の人間の営みは、どんなに綺麗事を言っても結局は、自分にとって得か損かと言う事でしょうし、「お礼」と言うものを形の伴ったものにする、何らかの恩恵に対してのお返しは、
    経済原理のみならず、生きる営みそのものや、人間の道徳や評価軸そのもの(何かをした事への評価、果すべき責任、責務を果たせない事への罰則、等)の中にかなり深く入り込んでいるものなのですね。

    利害関係から完全に離れる。

    次の回の内容を楽しみにしております。

    1. y.kさん
      コメントありがとうございます。

      仰る通りです。

      見返りを求める行動は、
      人間の最も本質的性質であり、気づかないところで奥深く入り込んでいるものです。

      ただ無心にということがいかに困難なことか、
      自分自身の行動と思いを振り返ってみると思い知らされます。

      私自身、
      何らかの形で「布施行」を、

      試みていこうと思っています。

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