副住職の法話推敲記録ノート

仏教は幸せを求めない。なぜなら、、、

宗教、自己啓発、スピリチュアル的なものなど、

世の中には、
どうしたら「幸せ」になれるのか?

あるいは、
「幸せ」になるためには、何をしたらいいのか、いけないのか?

 

たくさんの情報があふれています。

 

では、
仏教を信じたり学習すれば、幸せになれるのか?
もしくは、幸せになるために、仏教があるのでしょうか?

 

実は、
仏教についての多くの書籍を読んでみても、
その「幸せになる方法」についての言及は、ありません。

 

むしろ、
苦しいことや、悲しいこと、困難からの回復についてや、
心がほっこりとなるお話など、

心がマイナスに落ち込んでいるところから、
どうやってそれを癒すのかがメインテーマとなっているのだと思います。

 

つまり、
マイナス(-)からゼロ(0)への教えばかりで、
その先の、ゼロ(0)からプラス(+)へのポジティブな教えはほとんど無いのです。

 

それは、どうしてでしょうか?

 

「幸せを求めること」
「誰でも幸せになれる方法」など、
一見、耳触わりが良い言葉ではありますが、

言い方を変えてみると、

もっと成功したい、年をとりたくない、あの人と付き合いたい、お金持ちになりたい、有名になりたい、勝負に勝ちたい、他人に認められたい、自己実現したいなどの思いとほとんど同じであることが多いのです。

 

実は、それらはまさしく、
「煩悩」のことなのです。

 

仏教はそもそも、
その「煩悩」にふりまわされることこそが、
苦しみのもとになっているという教えですから、

ゼロ(0)からプラス(+)への言及が無いのは自然なことです。

 

さらにまとめて言えば、
仏教では、

マイナス(-)からゼロ(0)への回復を目指すものと同時に、
プラス(+)からゼロ(0)への心の落ち着きを目指すものでもあるのです。

つまり、
どちらにせよ、ゼロ(0)を目指します。

 

仏教の最も根本的な考えに、
『中道』がありますが、

「何事も両極端に偏らず、中ぐらいが程好い」という教えです。

まさしく「中道」である、ゼロ(0)を目指すこと。
私たちの胸に手を当てて、一度考えてみませんか?
 

 

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コメント

  1. 枝動 より:

    こんにちは。
    そうかぁマイナスからゼロですか、そう云われればなるほどって思います。
    そして、プラスの高み(煩悩)を望むのではなく、「吾唯足知」と云うことでしょうか。

    • 建岳 より:

      枝動さん、
      コメントありがとうございます。

      常に0を目指す生き方。
      最近、世の中が良いことをしようという風潮に振り回さ過ぎている気がしていました。
      自分の目標を、表現してみました!

  2. みき より:

    いろいろお世話になりました。
    とても素敵な内容ですよね。祖父も、口癖は「中の上でいるよう頑張れ」でした。
    上も煩悩になるかな(^^;; 私も物事を考えすぎる性格で、歳を重ねるごとに自分の選択に自信がもてないこともありますが、今に感謝を忘れずゼロでいられるようにしたいです。有難うございました。

    • 建岳 より:

      みきさん、
      コメントありがとうございます。

      こちらこそお世話になりまして、感謝しております。
      とても素敵なご家族、とても素敵なご関係者の皆さんを拝見し、
      お人柄、お気持ちが、受け継がれ広がっていくのだと感じました。

      文章中の、本当にゼロを目指す生き方は、
      世を捨て出家しても、なかなかできない程のことかもしれません。

      私たちが一般社会で生きる上では、
      まさしく「中の上」、ちょっと上ぐらいが一番丁度良いのだと思います。

      ありがとうございますm(_ _)m

  3. y.k より:

     失礼いたします。
     とある番組で、「幸」と言う漢字の成り立ちについて解説があり、
    もともとの意味合いとしては、 
    かなりの、いや、さんざんな目に合うということだったそうです。
    したがって、今言われている幸せと言う意味合いよりは、
    「この程度で済んで良かったね」という意味合いの方が強かったことを知りました。

     以前、「境界線の無い境地」の事について話されていましたが、
    いきなり、世の中のルールや道徳を含めた価値基準を、つまり「ものさし」をとっぱらうか、或はそこから離れ去るというのは、競争社会という世俗を生きる私にとっては難易度が高すぎる。
     それに、社会にとっても取りあえずは外から強制し矯正する「ものさし」があるからこそ平和な秩序が保たれるということがあろうと思います。
     手順を踏まずいきなり「ゼロそのもの」という、そこ、に至るのはそれこそ極端。ちょうど良いを通り越している。
    そういう意味で、まず「中の上ぐらい」をめざすのは仰る通り一番丁度良いと思います。

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