狭い道を歩いていると、
前方から人が歩いてきて、すれ違う時、
あなたは道を相手に譲るでしょうか?
それとも、自分が優先だとばかりに相手にどいてもらおうとするでしょうか?
これが、歩いている時でなく、
車を運転していて、横の道から前に入れて欲しいとウインカーを出された時や
コンビニのレジで並んでいる時に順番がおかしくなった場合など、
しかも急いでいたりする時、
気持ち良く、相手の方に譲ることができるでしょうか?
なかなか
できないことではないでしょうか?
私たちは、
常に自分を優先に考えてしまいがちです。
邪魔されたくない、
待ちたくない、
私は急いでいる!
誰しもに、
このような自分の都合(欲望)がありますが、
その表出は人によってその程度が変わります。
私たちが生活するなか、
さまざまな人の都合がぶつかり合う場面で、
周りの人への配慮が無く、
自分の都合ばかりにとらわれて主張する人もあれば、
ルール、社会通念、法律などを考慮にいれて、
自分もこの規則を守るから、あなたも尊重するべきだとの思いをもとに、
周りの人に配慮をしたうえで主張する人もいます。
(でも、そのルールを自分の都合の良いように良いようにと
解釈を変えてしまえば同じことですが)
自分の都合ばかりを押しつけて、
自分のことばかりで、周りの人に配慮ができなければできないほど、
周りの人にとっては、
嫌な人、扱いにくい人、さもしい人、
あさましい人、卑しい人などと感じらてしまいます。
この反対に、
自分の都合よりも、周りの人の都合を優先できる人は、
周りの人の、居心地が自然と良くなって、癒され、
とても魅力的に感じられます。
周りの人の都合を優先できればできるほど、
究極的には、
命の危険もかえりみず、身を挺して誰かを守ったり、
マザーテレサのように、
私心が全くない境地に達すれば、
まさしく「聖人のオーラ」が醸し出されるのだと思います。
私自身は、自己主張や、
自分の都合ばかりを優先させてしまう心当たりが非常に多いのでいけないのですが、
仏教とは、
このような自分の都合を弱めていく、
自我を弱めていく
そんなトレーニングをし続けていくものだと思います。
そして、
周りの人をホッとさせ、
自然と癒されるような、
そんな「菩薩」(聖人)を目指すものだと思います。
コメント
良いお話をありがとうございます。
僕も、お寺の近くのミニストップとか行くのですが、(コピーが5円ですので)
大量にコピーすることがあったりするので、
自分で独占せず、適当に譲るようなことは心がけたいと思いました。
大塚 高史さん、ありがとうございます。
書いている私が全くできておりませんので恐縮ですが、
私も、気づいた時に心がけていこうと思っています。
そうするといつか宗教者らしいオーラがでてくるかもしれません!?
そういえば5円コピーは、体育館の前のバローにもありますよ。
ミニストップが込んでいる時には、すぐ近くですから利用されると良いかもしれません。
※FBコメントと同文ですm(_ _)m
失礼致します。
ルール、社会通念、法律、、、ですが、
法律は、それぞれの人の背負うもの、背負ってきた信念、聖域、生き様、前提条件、の違いを踏まえた上での「公共の場(価値観をある程度共有する共同体などはそれに属さない。それは「公」ではなくあくまで「私」的領域である)」での「気持ちよく住み分ける為の妥協点」としての取り決めと考えてよいと思います。
したがって自分の都合のよいように解釈を変えてはいけないものの最たるものだと思います。だからこそ違反者への取り締まりが有り、若し異議が有れば、手続きを通してあくまでルールの中に、秩序の中に解決を見出そうとする姿勢ですね。
でも、人倫と無関係かと言うとそうでは無く強制力が有ることによって、道徳的なものを現実的に担保できると思います。これは建岳様が死刑制度について述べられている事ですね。
強制力では無くあくまで心の在り方として思う事は、
人として生きる以上、何かに取り組む時、優先順位を付けるのは仕方が無いという覚悟を持つ事。どうしても何処まで行っても自分本位で、判断は恣意的であることから逃れられない事。周りの人を自分より優先することでさえ、自分がそう納得している事、そうしたいからすると言う事を自覚することだと思います。
因みに、
逆説的ですが聖人のオーラが醸し出されている人の前に立つと、気の小さい私は、
かえって、そのお方に進んでこちらから道を譲ってしまいそうな気がします。
そうすると、
何かの本に、「人生とは大そうな修羅場であり、、、」とありましたが、
我を通しぶつかり合うほど上手くいかない。通さなければ逆に優先してもらえる。ということがあるのもまた然りなんだなと思えます。
y.kさん
コメントありがとうございます。
聖人のオーラは、
まさしく逆説的に、周囲の人を説きふせてしまう。
敬わずにはおれない雰囲気を醸し出すものでしょうね。
そのような菩薩様がこの現実にひとりでも多く現れれば、
心地よい社会になるだろうと思います。
ただ、現実的には、
なかなかそのような人はあらわれません。
周りの人を自分より優先しているつもりでも、
実は、自分自身の満足感を得るためにしている場合がほとんどで、
それでは、聖人のオーラは纏えないのですね。
つまり、全く見返りを求めない布施行をすることになります。
次回そのことについて表現をしようと思っています。
法や倫理、道徳、常識などについては、
自分の正当化するため、権利を主張するためにあらゆる手立てがとられ、争われ、
その形が変わり得るものだと思います。
私たちに「浅ましさ」まで捨てさせる強制力は、なかなか無いものなのでしょうね。
こんにちは
コメントをすっかりご無沙汰してしまいました。
なんだか身につまされるお話です。
周りの人をホッとさせ、
自然と癒されるような、
そんな「菩薩」(聖人)を目指す…
そう、目標はそこなんですけどね。
Sakulanboさん
コメントありがとうございます。
こちらこそご無沙汰をしておりますm(_ _)m
並みの修行では、間違いなく「菩薩」(聖人)にはなれません。
見返りを全く求めない布施行ができるかどうか?
が鍵だと思います。
といって私自身ができていませんので、
これからできるところから取り組んでいくつもりでいます!
[…] ⇒前回 『聖人のオーラ』 からの続きです 前回のブログでは、 […]
マザーテレサの様に、全く私心が無い境地。
たいへんレベルが高いですね。
彼女が生前活動していたインドの修道院を取材したビデオを観た事が有りますが、
生き倒れになった人が担ぎ込まれてくる。
意識が有るなら、名前、出身地、その人の宗教、を聞く。
人生の最後になってしまう人もいるが、出来得る限り最大限その人の在り方を尊重する為と言う事でした。
経緯やどんな人となりかも分らない人に対しても「最大限の敬意」をはらって接しているのだと思いました。
どんな存在であれ相手を「最大限の敬意を持って尊重」する。
「人権」の本来的な意味にも適っていると思いました。
y.kさん
コメントありがとうございます。
マザーテレサは、まさしく常人ならざる「聖人のオーラ」のある方だと思います。
それは、その行いに全く私心がないからだと思います。
誰かと出会えば、
自分にとって、好きか嫌いか、素敵か素敵でないか、メリットがあるかないか、
危害を加える危険があるかないか、
など、ありとらゆることを考えながら、感じながら、
その対応策、より意味のあるものにするにはどうしたら良いのか?
としていくのが私たちだと思います。
私心がないからこその「最大限の敬意を持って尊重」なのだと思います。