2013.6.22
⇒前回からの続きです。
このブログの
上部にある説明をご覧いただきますと、
「~法話を推敲する過程で考えたことや、日頃感じていることなどを、そのまま素直に表現するブログ。」
と書いてあります。
もちろん、
他ならぬ私自身がそのように書いたのですが、
しかし、正直なところ、
どこまでそのまま素直に表現ができているのか?
と考えてみれば、
やはり、
100%、素直にできているわけではないと思っています。
もちろん、
自分の思っていることの真逆のことや嘘を書くようなことはないのですが、
これまで、
結構自由に書いているようにも見えますがf(^^;)
誤解をうまないように、
極力、穏便な表現にしたり、
また、
自分が感じ思っていることをそのまま書けなかったりすることが全く無いわけではありませんし、
お寺の檀信徒さんはじめ皆さんは、
本当に立場がさまざまですし、
そのさまざまな立場の皆さんに支えていただいている
お寺の副住職として相応しい表現をと、
常に心掛けてもいます。
このような表現を考えていく過程のお陰で、
自分自身の思いがより深まったり、
場合によっては当初思っていたことと違って、より良い思いに至ることもあるので、
この推敲!?過程はとても意味があると感じてもいるのですが、
しかし、一方、
自分に素直になれているのか?
「もうひとりの自分・無意識」に素直になれているのか?
という観点で考えてみれば、
知らず知らずのうちにでも、理性の自分の枠へはめ込んでいるとか、
コントロールをしようとしているのではないかと感じることもあります。
もちろん、
私の中の「もうひとりの自分・無意識」は、
身勝手で、怠け者で、すぐ周りのせいにするという、
とても人さまにお見せできるようなものではありませんがf(^^;)
さて、
私たちは、多かれ少なかれ、
「自分はこうならなければならない」
「自分はこうあるべきだ」
あるいは、
「よき母として」
「男として」
「立派な社会人として」
など書ききれないぐらい、
様々な制約の中で生きています。
もちろん
それらの制約に対しての努力は、
とても貴重な行為なのですが、
その一方で、私たちは、
なかなか「もうひとりの自分・無意識」に素直に生きられない存在でもあります。
<続く>
※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。
コメント