副住職の法話推敲記録ノート

そもそも、個人と国家を混同していいはずは・・・

⇒前回 『仏教と儒教の本質的な違い』 からの続きです

 

訳のわからない表題かもしれませんがf(^^;)
表題のとおりです。

 

国家(権力)」と「個人」は、
そもそも全く別の役割や立場の存在であって、
同一視するべきものではなく

それぞれの行動規範や倫理!?は、
しばしば表裏一体、あるいは、光と影!?のものであり、
そもそも種類が全く異なるものです。

 

例えば、
個人個人が、国がするように、
税金を取り立てたり、犯罪者を捕まえ裁いたりし始めたら、
大変な混乱状態になるのは明らかなように、

 

国家(権力)は、
個人のあり方を保証するために、
法律教育司法、税金、官僚など様々な制度仕組みを整えるからこそ、その国家の役割を果たしうるもので、

個人の自由や権利などを認めるための、
黒子役であり、ある意味での汚れ役を担っているものです。

 

ですから、
国家も個人も同じことをすれば良い
などと同じレベルで同一視をして語ることには無理があり

そもそも「次元が異なる存在」なのだと思います。

 

違う次元のものを
同じ次元で考えてしまうと非常におかしなことが起きてしまうことを、
私は以前、このブログで「次元の違い」ということを書いたことがありますが、
⇒http://eishojikengaku.blog33.fc2.com/blog-entry-99.html

 

このエッシャーの滝の絵!?のように、
エッシャー滝
(著作権の問題で画像が使えるかよくわからないので
手製のイメージイラスト。なんとなくで見ていただければと思います。 )

 

3次元のものを2次元に書き表そうとした場合の
それを書き表す難しさ不思議さおかしさと同じようなものです。

 

 

国家がすることを個人がしても良い」
個人の規範を国家にも求める」

 

などという考え方は、
まさしくこの不思議な絵になりかねないのです。

 

つまり、ですから、
というところで次回に続きます。
<続く>

 

⇒旧ブログはこちらからご参照ください

 

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コメント

  1. y.k より:

    おはようございます。
    成程、儒教が優れて政治的であるという意味が分ります。

    何故、孔子は、斉の桓公や管仲の個人的スキャンダルや不義理や一族への粛清等の悪逆非道を不問に付したのか?それどころか彼らを高く評価したのか?そのあたりがよくわかります。

    国家とは、政治とは何かを識っていたと言う事ですね。

    ただ、今の日本人は儒教を個人道徳の装置としてのみに誤解してとらえており、政治的なのは、法家の韓非子だけ(権謀術数=韓非子)のように誤解していると感じます。

    ある意味での汚れ役を担う、、、成程です。

    ある社会学者がマキャヴェッリの言いたい事を意訳して、
    「フィレンツェ共和国市民の皆さん、皆さん方の成し遂げたルネッサンスの成果は素晴らしいものです。皆様方の栄光と成果を守るためであれば、どんなえげつない事でも手を染める所存です。ルネッサンスの栄光と成果は共和国市民の皆様に、そして汚れ役は我々が担います」
    と言うような事を言っていたのを思い出しました。

    道徳や是非善悪の基準は、所詮人間が作り出した恣意的なものである。国家と言うものも幻想であり物語である、フィクションである。

    国家を担う者はこう見定めたうえで、国民にはこの物語を安心して依存してもらう、信じてもらう為に、制度を設計し運用する、正直者が馬鹿をみないように法を施行し秩序を保ち、フィクションをノンフィクションにする。

    これが政治家の徳目で、これさえしっかりやってくれれば、どんなに個人道徳的に人間として最低であっても、ゲスであっても、構わない。

    市民が市民道徳を守って平和に暮らせる為なら、市民道徳の範囲を逸脱する事を躊躇う事無かれ、後で何の権限があって、逸脱行為を行ったのかと非難される事を恐れるな。

    性格の良い藪医者より、悪辣な名医の方が、よっぽどましだ。と言いきってしまうのはいくらなんでも抵抗は有りますが、、、、。

    そもそも次元が異なる、、、成程です。

    • 建岳 より:

      y.kさん
      コメントありがとうございます。

      儒教のお話、マキャヴェッリのお話、とても興味深いです。
      民、一般庶民を幸せにするために、国家が何をしなければいけないのか?
      どんな役割を果たさなければならないのか?

      政治家の個人的スキャンダルと、政策遂行については別問題であるということ。
      個人の幸せを追求するためなら、それほど悲壮な覚悟をもって国家が汚れ役を担わなければいけないこと。

      まさに、現実問題としてあることです。

      現在、この国家と個人の両者を混同してしまうことが多いと感じますが、
      今こそ、「次元が違う問題」というコンセンサスが必要だと思います。

  2. […] ⇒前回 『そもそも、個人と国家を混同していいはずは・・・』 からの続きです […]

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