江南ロータリークラブ主催の
池上彰氏講演会に行ってきました。
さすがは時の人、池上さん。
会場に人が溢れかえり、大ホールに入りきらず、第2会場の小ホール。
それでも入りきらず、第3会場の研修室まで利用するという
江南市民文化会館はじまって以来のこととなりました。
私は第2会場の小ホールでモニター越しに池上さんのお話を聴きました。
池上さんのお話は分かりやすく親しみやすく、
心にしみこんでくるような、ある意味魔法のような!?お話なので、
私も法話をお話しするときに、
何か参考にすることができないものかと思いましたが、
難しい限りですf(^^;)
講演内容では、
学ぶことにおけるリベラル・アーツ(一般教養!?)の重要性が主テーマで、
「すぐに役に立つ知識は、すぐに使えなくなる」「すぐに役に立たない教養は、いつか役に立つことがある」
という観点で、学ぶことの重要性をお話いただきました。
「私たちが学校で習う数学がなんの役に立つのか?といわれるけれど、
例えば対数、logなどは、地震のマグニチュードを理解することに必要で、
因数分解は、
さまざまな現象を説明するのに、
その共通項を抜き出して説明する、そしてその後、それぞれの特徴を説明するという
その思考法に生きてくる。
ビートたけしさんも映画監督には因数分解の思考法が必要だと仰っているぐらいなんです」
など、
一見役に立たないような勉強が、実はずっと気付かないうちに!?
大きく役に立っているというお話はとても興味深く聴きました。
ちなみにこの因数分解については、
私も過去のブログで、議論を深め、お互いの合意一致点を見出すためのしくみが、
因数分解の考え方だと書いたことがあったので、とても面白く感じました。
そのときのブログはこちらです↓
⇒「信じることの本質、自己肯定と他者否定」
また、
日本人はルールの中で、ルールがあると言う前提で一生懸命、真面目に努力することは得意だけれど、
ルール自体を考え、生み出していく力が弱いという指摘がとても印象に残りました。
池上さんの存在は、
朝日新聞の問題をはじめ、大きな影響力があり、
今や、池上さん一人で、新聞社一社、テレビ局一局分ぐらいの存在感があるのかもしれません。
今後のますますのご活躍を期待しております。
コメント
失礼いたします。
以前私は、孔子の人生を描いたあるアニメをちらっと見たことがあり、
儒教と言えば訓詁解釈に明け暮れるものだとばかり思っていたのですが、
意外なセリフが出てきて、その台詞の内容なのですが、
今の世の中、規則と言えば、わけもわからず有難がり頑なに守るか、さもなくば、秩序など関係ないとばかりに、規則を無視し破りまくるか、そのどちらかしかいない、そもそもなんで規則があるのか、それができたころにはどんな意味合いがあったのか、なんのために(誰のために)規則があるのか、それを求めるものがいない。わたしはそれが知りたい。
と言ったことでした。
一方欧州では支配者によるルールで人民が徹底的に苦しめられたという感覚があり、その前提でルール自体に一定の懐疑をもって慎重に考える。
そしてルールは自分たちの約束事として自分たちで作るという自主独立の気概と、それを弾圧しようとする支配者への抵抗と不信感からデモクラシーが生まれる。
他方日本では、欧州程には支配者と人民との間の緊張関係がない。ルールが人民の為にあるということをあまり疑わないで済む恵まれた環境にあった。(例、仁徳天皇の逸話、講談本や時代劇での水戸黄門など、権威者は人民の味方として描かれる)
非常に良いことではあるが、結果、あなた任せになり、自主独立や反骨精神の気概をもった人々から見れば甘えているように見えるのかもしれません。
ルール自体を考える力が弱いというのは、非常に鋭い指摘だと思いました。
y.kさん
コメントありがとうございます。
非常に勉強になります。
現在の日本人の特性は、まさしくそのような歴史的経過があってのことだと思います。
私自身は個人的に、
ルール自体の意味が何であるのか?非常に興味関心をもって考えてしまうタイプですので、
その点では日本人型というより欧米型かもしれません。
国際スポーツにおけるルール変更、
TPPの交渉、
捕鯨問題など、
日本人はどうしてもルールの中で最善を尽くし、
ルールの中で最善を尽くせば他国に理解・支持されるはずだ!
という無意識レベルでの思い込みが、
じわじわと追い込まれていく原因の一つになっている気がしています。
私たち日本人ひとりひとりの意識が変わっていくことが、
円滑な国際関係を作っていく一要因になり得ると感じます。