いきなりですが問題です!
次の3つの場面のうち、最も望ましい「托鉢(たくはつ)」はどれでしょうか?
これは今度、臨済宗妙心寺派の愛知西教区青年僧の会で行う
「年末助け合い托鉢」のチラシの原案を考えていまして、
最初は、4コマ漫画のようなもので
托鉢の特徴をを説明しようかとあれこれ試行錯誤していたら、
あっ、いっそのことクイズ形式にしたら面白い!
と思いついて作成したものです。
さて皆さん、
上の3つの場面で、最も望ましい托鉢はどれでしたか?
それでは、クイズの答えは?
このように托鉢は、一般的な募金とは一味違うのです。
念のため、答えは画像だけでなく
テキスト文書で書いておきますね!
「超難問!? 托鉢の作法クイズの答え!
もちろん「②お互い感謝の言葉を述べあう」でも間違いではありませんが、実は「③何事も無かったように別れる」が最も望ましい正解です。お礼や感謝の気持ちは言うまでもなく大切なのですが、私たちは誰しも、ともすれば自分がした良い行いへの「見返り」を求め、お礼が無くてガッカリしたり、感謝されなくて残念に感じてしまうものです。仏教の托鉢とは、無意識のうちに見返りを求めてしまう私たちの心をも克服し、清らかにしようとする布施行です。なお、①は問題外ですねf(^^;)
当日は是非、年末助け合い托鉢にご協力いただき、仏教の真髄を感じて下さい。」
コメント
こんにちは
③が正解ですか。以前に何かで読んだような気もしますが、やっぱり不思議ですね。仏教の世界は本当に奥が深いです。最近、スピーチの練習に日本の題材をいろいろと使っているのですが、仏教も、紹介したい内容のひとつです。でも、これはもう少し勉強してからでないと無理そうですね。
Sakulanboさん
コメントありがとうございます。
感謝の気持ちは一般的にはとても大切なことですが、
その気持ちにとらわれ過ぎてしまうといろいろと問題が出てきてしまうのが
人間の悩ましい現実です。
仏教はその悩ましい現実にまで、正しく目を向け、正しい行動を目指していくものだと感じます。
スピーチ応援しておりますm(_ _)m
失礼いたします。
この問題を見た瞬間に、余計な予備知識が邪魔をしてしまい、答えがおそらく③であろうと薄々読めてしまいました。
時として知識が邪魔をして素直な心やわくわくする楽しみや驚きを奪う場合がありますね。
私はこの問題を見てNHK大河ドラマに出てきた一休宗純禅師のシーンを思い出してしまい(何の場面かは大体お分かりいただけると思います。)ました。
余計な知識に振り回されずにこの問題を自分なりに見て見ると、③の答えは、お互いに構えることがなく自然体でいられ楽ですね。
托鉢とは違うものですが、
一般的な募金であっても、これなら精神的に楽でしょう。ただそれだけの事として感じられ身構えたり大げさに考える必要がない。
今でこそ日本人のメンタリティーもずいぶん変わってきましたが、
欧米の人に比べチャリティーやボランティアに関して、或は困窮者に対して非常に関心が薄いとみられてきたみたいです。
なぜ一見日本人はそれに関して冷たく見えるのか、理由として、
①高貴な者の責務としてのそれを行う習慣、富める者の責務として、それを見える形でアピールする習慣がなかったこと。
②何が偽善なのかに関する基準が厳しく、偽善を嗅ぎ取る嗅覚も鋭い。いい子ぶっているようで恥ずかしい。
と言うことがあるそうです。
①②を合わせてみて思うのは、
「日本人ってなんて変なところで不器用で真面目で、そして内気で照れ屋なのだろう、この『奥ゆかしさ』を説明し分かってもらうのは難しそうだ」
と言うことです。
托鉢ではありませんが、何でもないそのままのこと、それ自体に意味はない、ただそれだけの事、と思えれば何と「自由」な気持ちで楽な事だろうと思います。
もちろん人によりけりです。「自由」とはある面突き放すような厳しさがあり、自分一人でニヒリズムと対峙しなければならない部分がある。それには耐えられず拠りどころとなる絶対的なもの(神や権威者)や制約があり、確かなものや、お墨付きや、意味や意義がないと自分を保てない人もいるでしょう。
自分がした行為に対しての承認欲求は自分の存在意義、存在価値を保つ役割もあるという面が悩ましい所かなと思います。
y.kさん、
コメントありがとうございます。
解答が読めてしまうとはさすがですね♪
私の周りでは僧侶を除いて誰一人として正解された方はいませんよ!
日本人、欧米人のチャリティーやボランティアに対するメンタリティーに対する考察、とても興味深く思います。
歴史、文化の過程によってそれぞれ特徴がでてきているのだと感じます。
また、私たちはいつも、自分の行動の意味、
自分の行動が自分にとってどんな利益があるのか?
意識して、あるいは無意識のうちに計算して行動を選択してしまう存在です。
挙げていただいた、
自分の承認欲求、存在意義、存在価値が充足されること、
自分の行為に何らかのお墨付きが与えられること、など、
なかなかその性質から逃れられない存在でもあります。
この本質的な人間性に気付き、その克服を目指そうとするものが仏教なのだと思います。
私自身、頭や理屈では理解できても、
心や行動で全くといっていいほどできない、実践しようとすることすら困難な課題でもあります。