お寺に入る前の職場の機関紙に文章を投稿させていただいています。
その23です。
『グリーフケア・葬送文化 その2』です。
『「やっぱり、うちのお経を聞くと落ち着くわ」
「うちの宗派のお経はいいね」
葬儀や法要の際に、檀信徒さんに言われることがあります。
これはうちの宗派(臨済宗妙心寺派)のお経が、
他の宗派より優れているという意味では、ありません。
宗派によって、
お経はもちろん文章、意味、内容が違い、メロディー!?があったり無かったりなどですが、
「小さいころから、ずっと聞いていて馴染んでいる」
「しっくりきて、心が不思議とほぐれる」
「他のお寺さんのお参りだと、ちょっと違うな~と思う」
つまり、
どれだけそのお経がカラダとココロに馴染んでいるのか?という意味です。
私が小さな子どもだった頃、
葬儀や法事などで「お経」を読む時間が退屈でしかたなく、
落ち着きなくしていたり、
多少大きくなっても「何の意味があるんだろう?」
「亡くなった人が、生き返るわけでもないし?」
「お経って何言っているかわからないし、意味もわからないし?」
と疑問だらけ、違和感だらけだったのですが、
それでも両親などに、
「ちゃんと、おとなしくしていなさい!」
「行儀よくしていなさい」などと繰り返し言われ躾をされるうちに、
「よく分からないけれど、そういうものか」
となんとなく受け入れはじめて、
気がつけば、相変わらずわからないままでも、
葬儀や法要を、
普通のこと当たり前のこととして過ごしていくようになっていました。
大なり小なり多かれ少なかれ皆さんも同じような経験、
心当たりがあるかもしれません。
葬儀、法要に小さな頃から繰り返し参加することによって、
実は、私たちにはこの
「よく分からないけれど、なんとなく過ごす時間の習慣」が身につくのです。
お寺や仏間の独特な空間の雰囲気、服装、皆んなが静かにおとなしくしている、
線香の香り、そして「お経」。
お経が詠まれている時間は、「心静か」に過ごします。
そういうものだからです。
嗅覚、視覚、聴覚などで「条件付け」された環境が整えば、
自然に心は意味や無駄なことを考えず、ただ時を過ごそうとします。
大切な人が亡くなってしまった時、
心にぽっかりと穴が空いてしまった時、
悲しくてしかたがない時、
寂しくてしかたがない時。
「もう一度、会いたい」
「もう会えないなんて、信じられない」
「あの時のことを謝りたい」
「ちゃんと、ありがとうと伝えたかった」
何度も何度も想いがとめどなく溢れ続けます。
ココロと気持ちと頭が、
悲しみや寂しさで埋め尽くされ溢れそうになる時。
それでも葬儀、お経の時間に、不思議と心が落ち着くのは、
「心静かに過ごす習慣(条件付け)」が身についていればこそです。
悲しいこと辛いことを忘れようとすればするほど思い出してしまったり、
怒らないようにしようと我慢するほど怒りが爆発したり、
ダイエットしようと思えば思うほど食べたくなったり、
タバコやギャンブルをやめようと思えば思うほどしたくなったり、
私たちはそもそも、
心で心のコントロールをすることができない(非常に難しい)生き物です。
一説では、心で心をコントロールしようとすると、
真逆のことを1.5倍の力でしたくなると言われているほどです。
大切な人との死別による悲しみや苦しみ、
喪失感をケアしていこうとする「グリーフケア」。
葬儀と法要などを含めた「葬送文化」は、
まさしくこの「グリーフケア」の本質に機能し続けているものです。
あまりに本質的過ぎて、
ともすれば見落とされがちになってしまうものかもしれません。
ちなみに、仏教のお経は、
(重!?)低音で、一定のリズムで安定していることは、
宗派の違いを超えて共通しています。
キリスト教の讃美歌、聖歌、ゴスペルなどは、
祝福や感動、神秘、奇跡、歓喜など宗教的高揚感をもたらすもので、
いわばポジティブな感情に作用するものですが、
仏教のお経はそれらと比較すれば、
ポジティブというよりもむしろフラット、0(ゼロ)。
心の静まりを促すものだと思えます。』
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