歴史・沿革

歴史・沿革

永正寺のはじまり

寺伝によると、当寺は永正元年(1504年)杉山 主水すぎやまもんど の開創とされています。 家紋菊水が寺紋に使われていることからも、杉山家の持仏堂であったと考えられます。

臨済禅の大徳、悟渓宗頓ごけい そうとん (敕諡 大興心宗禅師だいこうしんしゅうぜんじ、仏徳広通国師)八哲の一人で、丹羽郡山那に生まれ悟渓の甥にあたる獨秀乾才どくしゅう けんさい(敕諡 法智普光禅師はちぶこうぜんじ)が長良崇福寺から当寺に招かれ、開山となりました。獨秀乾才は永正元年から同五年まで当寺に在住した後、善師野福昌寺に移っています。当時、高屋庵と称された永正寺はこのときから臨済宗妙心寺派に属していました。

その後、寄木村天道社内にあった不易山大道寺(現在は八事に移り、天道山高照寺と改めている)から三体の本尊仏が寄進され高屋山永正寺の寺格が許されたことと、文政の妙光寺法地入りが当寺成立の基盤を成したと言えます。

二世文渕玄珠が描いた開山画像に崇福寺住持宗寿師が画賛を寄せた一幅が寺宝として伝えられていたと記録にありますが、文化二年と天保四年二度の火災で多くの什器とともに烏有に帰してしまいました。

沿革

永正元年(1504年)
杉山主水により高屋庵として開基。獨秀乾才(敕諡 法智普光禅師)により開山。
寛永5年(1628年)
寄木村天道勘七より釈迦如来木仏を寄進される。
元禄16年(1703年)
天道祥雲院より観世音像を寄進される。
享保5年(1720年)
普賢菩薩像を寄進される。
享保12年(1727年)
高屋山永正寺の山号寺号を受ける。
文化2年(1805年)
自火により全山焼失する。
文政元年(1818年)〜
笹野・妙光寺の法地となる。それまでの平僧地から法地に寺格が上がる。
天保4年(1833年)
火災によって総門を除き全山焼失する。本尊、釈迦如来は京で新造され、檀徒長右衛門が京より背負って来たとされる。
明治24年(1891年)
濃尾地震によって一山倒壊する。
明治26年(1893年)
本堂、庫裡を再建する。
大正5年(1916年)
滝源七氏より鐘楼を寄進される。滝常太郎氏より宝蔵を寄進される。
昭和7年(1932年)〜
本堂、庫裡をはじめとした諸堂を修復し、寺苑の整備につとめる。古田吉三郎氏より茶所を寄進される。
昭和63年(1988年)〜
山門、弘法堂、さとりの大塔を建立する。茶所を再建する。

住職

  一代   獨秀乾才 永正13年(1516年)8月7日遷化、敕諡 法智普光禅師
  二代   文渕玄珠
  三代   大方鑑公
  四代   方外玄朔 元和元年(1615年)5月6日遷化 
  五代   元庵辰公 寛永17年(1640年)7月19日遷化 
  六代   無根因公 元禄13年(1700年)6月15日遷化 
  七代   万外智億 元文元年(1736年)7月14日遷化 
  八代   鉄翁祖嶺 延享2年(1745年)6月13日遷化 
  九代   宝山全鏡 天明2年(1782年)遷化 
  十代   鉄道智禅 文化2年(1805年)7月7日遷化 
 一世  一山祖栄
 二世  寛叟玄理 文政2年(1819年)4月19日遷化 
 三世  全応祖提 文政6年(1823年)6月21日遷化 
 四世  歎翁文喜 文久3年(1863年)6月10日遷化 
 五世  金嶺義剛 明治26年(1893年)8月3日遷化 
 六世  倍禅慧定 昭和18年(1943年)4月23日遷化 
 七世  月江真澄 平成5年(1993年)7月22日遷化 
 八世  無外大定
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