2013.1.20
⇒前回からの続きです。
私たちは、
本質的に利己的なもので、なかなか他人のことを思いやれない存在です。
「 私は、誰に対しても思いやりの心を持っている 」
と思っていても、
実は、
自分が利己的に振舞ってしまっていることに 気がついていないだけ のことが、
非常に多いのです。
パラドックスみたいな変なお話ですが、
私たち人間は、
自分が思いやりの心を持っていると勘違いしてしまうぐらい、
思いやりの心を持つことは難しいのです。
( つまり、思いやりの心を持っていないという自覚がある人は、
思いやりの心を持てるように心がけ、努力する可能性がありますが、
自分に思いやりの心があると勘違いしている人は、
その現状の自分に満足しているので、向上する可能性がありません )
ひょっとしたら
さも自分が慈愛にあふれているように勘違いしやすい性質さえ、
そんな利己的な性質さえも、
私たちは必然性があって持っているのかもしれません。
( いちいち大勢の他人に共感していたら、
その大きな精神的負担に耐えられないので、
その勘違いする性質は、
もしかしたら、精神的なリミッターのような役割としてあるのでしょうか? )
ある意味、それほどにまで、
利己的な存在である私たちです。
本当は、
本当の聖人クラスの人でないと、
その人間性を捨て去っての慈愛であふれるようにはなりません。
その聖人クラスの人は、
人類史上一体何人ぐらいいたのでしょうか?
そして今。。。
だからこそ、
私たち普通の人間が一緒に社会で暮らしていく上では、
お互いの約束事、ルールなどが必要不可欠になっているのだと思います。
「できるだけ、人様に迷惑をかけないようにしよう」
などという道徳や倫理。
「ルールを破れば罰則」がある法律など。
そのような、
人間の現実を踏まえた工夫、知恵、対応策などが必要不可欠だと思います。
けれども、
どうしてもこれだけ一見平和な世の中だと、
なんだか理想社会までもう一歩と、期待と欲望が膨らんでしまって、
「 私は思いやりに溢れている 」と普通の私たちが勘違いして、
「 何故、あなたは思いやりの心をもてないのか! 」と、
思いやりの心を持てているはずの人が、他人を責めたててしまうという現象さえ、
( その最たるものが、モンスターペアレンツですが )
日常起こっているのです。
さて、私たちは、
この思いやりの心を持つことを前提に、
現在の無縁社会を作っている。
あるいは無縁社会は、
私たちが思いやりの心を持たないと
成立しえない社会だと思います。
しかし、
私たちは、本質的に思いやりを持つことが難しい利己的な人間なのです。
次回以降、この辺りを述べていくつもりです。
<続く>
※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。
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