副住職の法話推敲記録ノート

利己的な人間性

2013.1.10
⇒前回からの続きです。

私たち人間というものは、

本質的に、そもそも、
なかなか他人のことを思いやれない存在だということを、

前回述べました。

それでは、
どうしたら良いのでしょうか?

私たちは「 思いやりの心 」を
なかなか持つことができないので、
人間教育や、倫理、道徳などのものを、

繰り返し繰り返し、折にふれ、
その重要さを説き続けていくことが最も大切なことでしょうか?

あるいは、テレビなどで、
身を呈して他人を救った英雄のストーリーを、
人の本来あるべき姿として取り上げ、

とても素晴らしい話としてスポットをあてるような番組を、
どんどん増やしていけばいいのでしょうか?

もちろん、それらの取り組みは、
一定の効果を生み出しますし、

絶対に無くしてしまってはいけないものだと思っています。

けれども、
あまり過度にやりすぎると、
説教じみてしまって!?
かえって嫌がられてしまうことになるのかもしれません。

また、そもそも私たちは誰しも

「 誰よりも幸せになりたい
「 誰よりもお金持ちになりたい 」
「 誰よりも人気者になりたい 」
うらやましいと思われたい 」
「 誰よりも、才能が欲しい 」

「 私の子どもは、誰より可愛い
「 私の子どもにスターになって欲しい 」

「 私の国は、どこよりも素晴らしい 」

などと根強く思い、願い続けているある意味身勝手な存在なのですが、
ごく一部の聖人クラスの人を除けば、
その本質が大きく変容することは現実問題考えられません

( ちなみに、上記の言い方だと欲望に直接過ぎて、

「 私の輝いている瞬間が一番好き 」
「 夢を追いかけている 」
「 私は子どもに、無上の愛をそそいでいる 」
「 I love Japan 」

などと耳障りが良くなるような言い換えを、
無自覚に悪気無く行っている傾向がありますが、

耳障りが良いからといって、
思いやりの心があるとは限りません。 )

私たちは、人間について
その良い悪いの評価は横において、

そもそも
そのような利己的なものだという現実の視点に立って、

より地に足の着いた対応を考えていくべきだと思っています。
<続く>

※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。

江南 永正寺(葬儀改革、癒し空間、コンサート)

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