副住職の法話推敲記録ノート

無縁社会から有縁社会へ

2013.2.5
⇒前回からの続きです。

さて、私たちは
自分が利己的であることに気づかないぐらい、

利己的な存在です。

以前、⇒こちらで、

私たち人間は、
自分と身内にしか直接苦しみや悲しみを味わえない仕組みになっていて、

その他のものについては、
間接的に自分たちのことに置き換えて、初めて共感する仕組みになっていることについて書きました。

これは、変えることのできない人間の本質です。

ペットなどの動物愛護や、
ボランティア活動などにとても熱心な方でも、

かわいいから、守りたい 」
可哀想だから、何とかしたい 」
好きだから、力になりたい 」

というのはまさに、
自分のこと身内のことのように想ってするのであって、

全く愛情を感じない その他 を相手にするわけではないのです。

もちろん私は、
愛護運動などそれらの活動を否定する意図は全くありません。
ただそれらの行いすら利己的な範囲内だと指摘するのみです。

例えば、
焼肉や唐揚げを普通に食べている人が、
(牛や鶏が食用として殺されることについては問題にしなくても)

ペットだけを守りたいと思うことについてなどです。

(ともすれば、それが行き過ぎて、
クジラの肉を食べてはいけないことだからと
他人の行為を妨害することなどは、まさしく利己そのものですが・・・)

また、
ボランティア活動についても、

自分と全く関係や接点のないものや
嫌な対象にするのではなく、

身内のように親身に感じるからこその行いだと思います。

つまり、
私たちは他人に対して、思いやりの心を持てているつもりのようで、
実は、身内に感じられるものにしか持てない存在なのです。

そして私たちは、今、
図らずも!?

周りから余計な干渉をされず、
自分たちの自由が最大限保障される「 無縁社会 」で暮らしています。

無縁社会が進めば進むほど
隣近所の人が誰でどんな人なのか?

関係も無ければ、名前すら知らないままです。
ひょっとしたら得体の知れない恐ろしい人かもしれないと心配してしまうかもしれません。

もし、そんな隣人失業してしまったら
「 それは困った。心配だ。何とかできないか 」と

私たちは思うことができるでしょうか?

昔のように、
隣近所、顔馴染みのような人の困りごとなら、
ほっとけない 」と思わず何とかしようとするものですが、

それこそまさに「身内意識」があるからなのです。

いうならば、
無縁社会 」とは、
身内以外の、圧倒的多数の他人を作り出す社会です。

ですから、必然に思いやりに欠け
他人の苦しみは他人事、「 自己責任 」で片付けられる風潮が蔓延するのです。

そしてギスギスした「 高ストレス社会 」となるのです。

無縁社会 」と「 思いやり社会 」は
人間の本質からすれば、両立しえないものです。

私たちは、
もう一度工夫して「 有縁社会 」を作らなければならないのではないでしょうか?
<続く>

※当然のことながら、このブログはあくまで私の個人的な解釈です。

江南 永正寺(葬儀改革、癒し空間、コンサート)

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