副住職の法話推敲記録ノート

過度の「個人情報保護」、もう一つの形

2013.2.11
⇒前回からの続きです。

どうして
無縁社会になってしまったのか?

現代日本では、
個人の人権、権利意識が究極にまで高まり

できるだけ他人から干渉されず
自由に自分のしたいように暮らしたいという、

私たちの願い、思い、欲望がかなりのところまで実現しています。

まだまだ足りないと、
熱心な活動をされているところもありますが、

もう既に、
パワハラ、セクハラなど、
当初の重大な人権侵害問題とは別の、

少しでもストレスを感じようものなら、
何でもハラスメントと命名され、
それらを全て無くしつくさなければならないような風潮です。

いっそのこと、
コミュニケーションを放棄してしまって
あるいはお互い最小限度に留めておいて、

個人勝手に生きることを、
できるだけ認め合いましょうとするかのような世の中です。

私たちがお互い、
干渉されず、コミュニケーションもとらず、
できるだけ自分勝手に自由に生きましょうという社会。

これこそ無縁社会そのものです。

もちろん私は、
人権や自由を軽視するべきだと言いたいのでは全くありません。

その権利を追求し過ぎたり
過度に認めすぎてしまうと、

かえって私たちは
生き辛く、苦しみの多い社会になってしまう危険性について
指摘をすること。

そして、
個人を認めながらも、
無縁社会にならないような、

バランスのとれた社会ができないものかと思っているのです。

そして以前、私はこのブログで、
個人情報保護」のし過ぎについての言及をしました。
http://eishojikengaku.blog33.fc2.com/blog-entry-287.html

無縁社会を作ってしまっている大きな要因のひとつだと思っています。

それに関連して、
もう一つ問題だと感じているのは、

個人情報を保護する意識が強まるほど
匿名社会 」になってしまう危険性についてです。

匿名社会の怖さは、
ブログツイッターをされている人は、
よく分かるのではないかと思いますが、

感情にまかせた攻撃的な文章で追求したり、
悪ふざけ面白がるのが集中して、「炎上」騒ぎになってしまうなど、

無責任他罰的
人間の持っている負の面を、むしろ強調し、むき出しにしてしまうのが「 匿名社会 」です。

これはインターネットの世界だけでなく、
実社会でも程度の違いこそあれ同じです。

匿名であればあるほど攻撃的になってしまう危険性があるのです。

一方、インターネットの世界でも、
facebookのように本名を公開するものについては、

発言それぞれに責任が発生し
おいそれと気軽に!?他人を攻撃できないという配慮雰囲気が感じられます

実は、私は、
この個人情報をあえて公開する試みこそが、

このギスギスした高ストレス社会が緩和され
無縁社会から有縁社会へと転換していくための、

非常に大きなキーポイントではないかと思っているのです。
<続く>

江南 永正寺(葬儀改革、癒し空間、コンサート)

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